2009年03月30日

善光寺 勝手な考察  6,なぜ、善光寺は長野の地に

 善光寺縁起によれば、「一光三尊阿弥陀如来は、天竺(インド)で出現され、百済に渡り、仏教伝来とともに日本に奉じられたが、政争のため、難波の堀江に捨てられた。そこを通りかかった本田善光に背負われて、信州飯田の地で祀られた。その後、信州長野の地に移られたのが善光寺の始まり」とされている。


(山深き里に大伽藍が出来たのか)

 一旦は、宮中に納められた「一光三尊阿弥陀如来」さまを、都から遠く離れた山深き里が選ばれたのか、その大伽藍を造営しお守りすること1400年。何故なのか疑問が生じます。


(長野は渡来人の地であった)

 1400年前、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の戦国時代でその戦渦を避け日本に渡来した人々を、朝廷は先ず軍馬の飼育する民として信州の地で牧場を営ませた。その渡来された人々は、高度の農業技術者でもあり、信州水内郡の役所があった地・長野の多くの条理で分けられた耕作地に入植され、そのおかげで豊かな農業生産地になったことは想像できる。その経済力は、その後上杉・武田両軍が奪い合った事からも理解できます。長野の地には、大伽藍を維持できる経済力と百済伝来の仏様をお守りする民が居たのであります。


(だから、本田善光は長野の地を選んだ)

 難波の堀江から、一光三尊阿弥陀如来を背負った本田善光(渡来人か仏教を信仰する役人)は、都における争いを避け、お祀りする地を選択するに、都から離れた安全な場所、お守りする同胞(渡来人)がいる地、経済力がある地を条件に、長野の地を選んだのであります。


(人・物・金の三要素)

 経営には三要素(人・物・金)が必要であります。稲作を行う農業技術者、当時スパーカーであった軍馬の飼育する技術者、耕作適地の地味豊かな扇状地、そこでもたらされた蓄積などが1400年善光寺さんをお守りできた理由であります。因果応報「偶然なものは何もない」善光寺経営に見習う点は多い。


長野GODO税理士法人 http://www.tkcnf.com/hoshino/pc/
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Posted by 税理士の星野 at 05:34│Comments(0)
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